堀田公園の右手に、「堀田池謝恩碑」が建っている。
このあたりの丘陵部では、「月夜に田んぼが焼ける」と言われたように、農業用水の安定した確保と分配に苦労を重ねてきたようだ。
堀田池は旧野田村のため池で、享保11年(1726)に竣工した。
このような田んぼを潤した数々のため池は、豊中が住宅都市として発展していく中で埋め立てられ、公園や学校に姿を変えた。
裏面には「堀田池縁起」が彫られているが、文字が小さすぎて、ところどころしか読めなかった。(読めば面白そうなので、白か黒の色をつけてほしい)
堀田公園から200m東に、堀田池が少し残っている。
埋め立てられなければ、けっこうな大きな池だったようだ。
ここから500m北東に「青池」があり、上野遺跡説明板、青池南湖畔窯跡説明板、青池北畔窯跡説明板が立っている。
さらに600m北に進んで、大阪中央環状線と中国縦貫自動車道が並走する手前に「道標」がある。
本来はここから100mほど先の、新旧の箕面街道が合流するところにあったが、大阪中央環状線建設の際に現在の場所に移された。
ここから南西に2kmに戻るが、能勢街道から分岐し、新箕面街道が始まる豊中駅近くに道標がある。
昭和2年3月に建てられたと彫られている。
梅花女学校と豊中中学校(現在の豊中高校)ができた時に、道がわかりにくくなったために建てられたらしい。
地図の合流地点の「合の文字」の下にうすく青く見えるのが青池で、その下にさらに小さく見える(教習所の習の文字の上)のが堀田池だ。